商店会について
中原街道と旗ケ岡
当商店会は、中世以前から続く古道(中原街道)に面した場所に位置し、徳川家康によって、江戸 時代の東海道が整備されるまでは東海道の一部としても機能していた。東海道整備後 は、江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)から平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿 )をつなぐ脇街道となりました。中原街道の名称は、平塚の中原御殿から由来されました。旗ヶ岡の名称は、現在大井町線荏原町にある、旗岡八幡の旗岡の故事(11世紀前半、源頼信が平忠常追討の際、当地で旗揚げをして祠に戦勝を祈願し、成就したことに基づく)に由来するとされている。
池上線と旗ケ岡駅
昭和26年頃まで現在の旗の台駅より200mくらい五反田寄りに、池上線の旗ヶ岡駅がありました。最初に開通したのが大正11年、蒲田から池上まででした。その後、蒲田から五反田まで全線開通したのが、昭和2年2月に旗ヶ岡駅ができました。
子育て地蔵と旗ケ岡
池上線開通の翌年に、地域住民が電車事故に巻き込まれないように(当時、住民が電車になれていないことから人身事故が発生)また、周囲の安全を祈願して当時の目蒲電鉄株式会社と地域の商店街住民の方々との間で「子育て地蔵尊」が祀れ、現在も神木の銀杏の木2本(品川区保存樹)と、お地蔵さんは地域の安全を見守りつづけています。
旗ケ岡の繁栄と衰退
その後、昭和20年戦火により駅は全焼し、終戦後建て替えられました。この駅は昭和大学(旧、昭和医専)に通う人たちの通勤などで乗降客も多く駅前は大変な賑わいでした。
この街には、電球・光学関連の町工場が沢山あり、そこで働く人たちの社宅やアパートも多くあり、この街で働く人、学校に通う人、住まい生活する人達の生活を支える商店が多く、住・商・工のバランスが取れた活気にあふれた街でした。
『旗ケ岡商店会』は、この当時各お店が連携を図り、各商店の繁栄と地域の発展のために組織され、諸活動がはじめられました。しかし、1951年(昭和26年)5月に大井町線東洗足駅と池上線旗ケ岡駅が合併し、現在の旗の台駅となり、駅前通りの衰退がはじまりました。以後、日本の産業構造の変革により町工場はマンションやビルになり老朽化した住宅が空き地や駐車場になりました。また、人口の流出により商店の数も減ってきました。
旗ケ岡商店会の再生
近年、旗ケ岡アパートメント等のマンションや住宅も増え人口が増加傾向にありそれに伴い、良いお店が少しずつ増えてきました。
半世紀前まで繁栄し続けたこの商店会を、より魅力ある商店会として『食・おもてなし・もったいない』を理念に掲げ、私たちはキャラクターのハタボー共々、多くのお客様に喜んでお越し頂き、感動しておかえり頂ける、素敵なお店づくりと、各種イベントの開催や街の美化に取り組み、魅力ある商店会づくりに邁進しております。
旗の台 愛タウン
旗ヶ岡商店街・旗の台東口通り商店街・旗の台三丁目商店街は、共同で旗の台街づくりを進めています。
「愛があふれる 旗の台 愛タウン」をよろしくお願いいたします。
会長からのご挨拶
みなさま、こんにちは。ぜひ旗ヶ岡商店街へお越し下さい。心よりお待ち申し上げます。
お地蔵さんも待ってます。
旗ヶ岡商店会会長 野口 宗孝
その他お問い合わせは
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